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桶狭間古戦場散策記(前編)どっちが本物?古戦場跡が名古屋市と豊明市の2ヶ所にある謎

桶狭間古戦場散策樹 前編 古戦場が2ヶ所 どっちが本物? 名古屋と豊明に存在する謎 アイキャッチ画像
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こんにちは!すーたろ(@sutarog)です。

先日、戦国時代の有名な合戦があった「桶狭間(おけはざま)」を歴史散策してきました!

そう、桶狭間は、愛知県にあるんですが…。

すーたろ

行ってみようと思って調べたら、「今川義元 最後の地」が2ヶ所あったの

ぱる

へ?ドユコト?


ひとりの人間の最後の地が2ヶ所?…ドユコト?ですよね。

この記事では、そのミステリーの真相に迫ります

  • 桶狭間古戦場はどこにあるの?
  • 「今川義元 最後の地」がなんで2ヶ所あるの?
  • どっちが本物なの?

そもそも「桶狭間の戦い」って?名前は知ってるけど、どんな戦い?

そんなあなたは、まずこちらの記事をどうぞ。

桶狭間古戦場散策記 序章 桶狭間の戦いってどんな戦い? 歴史的意味は?登場人物は? アイキャッチ画像
桶狭間古戦場散策記(序章)桶狭間の戦いってどんな戦い?歴史的意味は?登場人物は?桶狭間の戦いを、日本人なら誰しも、小中学校の歴史で必ず習うこの戦。歴史的意味は?登場人物は?具体的にどんな戦いだった?概要から詳細まで、写真や図を活用しながら、どこよりもゆる~く・やさし~く解説しています。...

最後まで、どうぞおつきあいくださいね。

桶狭間古戦場 どこにあるの?

桶狭間の戦い イメージイラスト

桶狭間古戦場跡と呼ばれる場所は、次の2ヶ所にあります。

1ヶ所目は、愛知県名古屋市緑区桶狭間にあるこちら。

桶狭間古戦場公園

ぱる

立派な公園!

すーたろ

地名も、ズバリ桶狭間なんだよね


2ヶ所目は、愛知県豊明市栄町南館にあるこちら。

桶狭間古戦場伝説地

ぱる

由緒正しい感じ~

すーたろ

昭和12年に国が史跡として指定してるよ

この2ヶ所、距離にして1.2km(徒歩15分)ほど離れています。

そして、わけがわからないことに、どちらにも「義元の墓」と、義元が馬をつないだとされる「駒つなぎのねず」(古木)がありました。

ぱる

なんで2ヶ所もあるの?

すーたろ

そして、どっちが本物なんだろね

桶狭間古戦場「今川義元 最後の地」はなぜ2ヶ所あるの?

昔から「今川義元 最後の地」は、多くの歴史家の間で意見が割れてきました。

実はさらにもう1ヶ所、愛知県豊明市沓掛(くつかけ)にも伝承地があったほど。

3ヶ所のうち、有力として残ったのが、前述の2ヶ所なんですが…。

すーたろ

どうやら、ルーツになった書物が2つあるからみたい

  • 太田牛一「信長公記」(おおた ぎゅういち・しんちょうこうき)
  • 小瀬 甫庵「信長記」(おぜ ほあん・のぶながき)

「信長公記」も、もとは「信長記」ですが、甫庵の「信長記」と区別するため「信長公記」と呼ばれるようになりました。

逆に、甫庵の「信長記」も、牛一の「信長記」と区別するため「甫庵信長記」と呼ばれたりします。

すーたろ

以下、「信長公記」と「甫庵信長記」としますね


太田牛一と「信長公記」

まず、太田牛一(おおた ぎゅういち)の「信長公記」(しんちょうこうき)ですが…。

ぱる

ぎゅういち、て。ちょ、名前(笑)

すーたろ

信長の超・側近「六人衆」のひとりで、弓の名手。桶狭間の戦いにも参戦した人なんだよ

ぱる

え!?なんか急にカッコいい!!

そう。自らの体験をもって書かれた書物なんです。

ただ、今でこそ「一次資料」として、多くの歴史家から研究されていますが、もとはあまり評価されていませんでした

一次資料とは。

歴史研究において(中略)、対象とする時代において制作された工芸品、文書、日記、写本、自伝、録音・録画、その他の情報源。そのテーマに関する大元の情報として利用される。

引用元:一次資料 – Wikipedia


ぱる

なんで評価されてなかったの?実体験で書いたなら事実なんでしょ?

すーたろ

桶狭間のことが書かれた巻に、間違いが多かったのが原因みたいだね

信長公記(しんちょうこうき)
  • 信長の一代記。全16巻
  • 著者・太田牛一は、信長に近侍する武将にして官僚
  • 晩年(80代)、日記やメモに加筆する形で書かれた

最初の1巻(首巻)には、尾張(愛知県西部)・美濃(岐阜県南部)を攻略して、京に上るところまでが書かれています。

桶狭間のことも、この首巻に書いてあるのですが。

すーたろ

なぜかこの首巻だけ、年月日や役名に誤りが多かったんだって


巻以降の正確さから、写本を作る時の写し間違いでは?と見られています。

ぱる

じゃあ、牛一、悪くないじゃん!

すーたろ

今では信長のことを最も詳しく、正確に書いている書物として重視・研究されているんだよ

小瀬 甫庵と信長記

一方の、小瀬 甫庵(おぜ ほあん)の「信長記」(のぶながき)ですが。

信長記(のぶながき)
  • 信長を主人公にした物語
  • 著者の甫庵は、儒学、軍学に優れたお医者さん
  • 桶狭間の戦いの4年後、1564年生まれ
  • 牛一が亡くなった翌年に発表(諸説あり)
  • 牛一の信長公記をライバル視…?
ぱる

ライバル視って?

すーたろ

序文でね、ざっくり、こんな感じのこと言ってるの

  • 牛一の信長記、立派だけど忙しかったんかなー、ちょい簡単すぎやて。
  • 俺がそこ、補うわ。偉人の功績が漏れてるのとか残念じゃん。
  • 50年も経ってから80歳が書いた物だし間違ってんじゃない?
  • 牛一自身も正直者すぎて面白んない(愚にして直)っていうか。

おもしろおかしくするため、ちょっといじりすぎかも。ごめん、ほあん♡

ぱる

言いたい放題(笑)

すーたろ

そしてね、「補う」とか言いながら、ちょいちょい話を盛ってる

ぱる

えー!じゃあ、史実じゃないんじゃん!

すーたろ

たくさんの人に信長の魅力を伝えるため、狙って「物語」にしたんだよね


牛一の「信長公記」は、淡々とした日記調

対して、甫庵の「信長記」は読み手を意識した、ドラマチックストーリー

すーたろ

結果、巷で人気になった「甫庵信長記」は、今でいうベストセラーだね



江戸時代中期以降、多くの軍記物(※)へとリメイクされて、拡散されていきました。

※戦国武将などの武勲・武功について書かれた物語形式

  • 信長公記:史実に忠実だけど、読み物としては面白みに欠ける
  • 甫庵信長記:面白いけど創作が足されて史実ではない

そして、この2つの書物が、2つの「今川義元 最後の地」を生み出していくのです…。

2つの「信長記」と2つの「古戦場」

「今川義元 最後の地」を探るルーツと思しき2つ「信長記」を紹介してきました。

ぱる

で、どっちがどっちのルーツなの?

  • 「信長公記」
    ➡ 名古屋市緑区桶狭間
  • 「甫庵信長記」
    ➡ 豊明市栄町南館…??

「義元 最後の地」の特定まではともかく…。

「信長公記」の評価が見直され、書かれている地形や様子をもとに研究が進められた結果、少なくとも激戦地は「名古屋市緑区桶狭間」に特定されました。

すーたろ

ただ、「信長公記」が評価されるようになったのは、二次大戦後

それまでは、創作モリモリの「甫庵信長記」の方が、史実として支持されていました。

それでも「甫庵信長記」でさえ、「義元 最後の地」には触れていません。

ぱる

じゃあなんで、南館が古戦場としての国の史跡に指定されたの?

すーたろ

話せばちょっと長い、こんな事情があるみたい…

史実か創作か?「伝説地」爆誕

  1. 江戸時代初期
    創作混じりの「甫庵信長記」で、桶狭間の戦いもカッコイイ戦として広く知られる。
  2. 江戸時代中期
    軍記物にリメイクされて、拡散。さらに創作が加わって、激戦地の設定が徐々に、観光に便利な東海道沿い寄りに?
  3. 江戸時代中期・1771年
    南館にあった義元の家臣の墓を、義元のと間違えて墓碑が立つ
  4. 明治20年代(日清戦争の頃)
    創作混じりの「甫庵信長記」や軍記物をもとに、日本陸軍が戦史編纂
  5. 昭和12年
    豊明村が文科省に史跡指定認可申請
ぱる

ちょ!②だけど、激戦地を「観光に便利な東海道沿い寄りに移動」って、都合よすぎ(笑)

②軍記物にリメイクされて、拡散。さらなる創作が加わって、激戦地の設定が徐々に、観光に便利な東海道沿い寄りに?

稀代の風雲児・織田信長の緒戦ともいえる桶狭間の戦い。

どんな場所で起きたのか見てみたい!という、まさに私みたいな人間が、江戸時代にも大勢いたわけですね。

すーたろ

それが、東海道から大きく外れた場所。大名にも旅人にもブーブーだったんでしょうか

南館を古戦場だと書いている軍記物が、時が経つにつれどんどん増えていったんです。

もう、「甫庵信長記」からもひとり歩きして、どんどん話が盛られていってそうですね。

リメイクされた「軍記物」をもとに、さらにリメイク・・・ムリもないのかもしれません。

ぱる

③の「間違えて墓碑が立った」っていうのは?

③南館にあった義元の家臣の墓を、義元のと間違えて墓碑が立つ

義元の家臣達が、義元の討死を知り駆けつけて、主君に殉じて亡くなった…

そのお墓(筆頭となる家臣の名前をとって「山田塚」)が南館のあたりにあったそう。

軍記物の中で「南館=古戦場」って話になる過程で「お墓も義元のもの」って話になっていったのかもしれません。

すーたろ

ただ一方で、敗軍の将の墓所を古戦場に作ることができなくて、少し離れた場所に作った可能性もあるの

だから、もしかすると本物のお墓かもしれないんです。

墓碑がったのは、合戦から実に211年後の、1771年8月。

ぱる

いや、もう誰も本当のこと知らない程度に時が経ってるね…

尾張藩の御国奉行人が、義元の墓碑のないことを残念に思って友人に相談。

それがきっかけで立ったもので、「桶狭七石表」と呼ばれています。

ぱる

激戦地もお墓の場所も、史実とは離れてきちゃってそうだね

そう。そしてその、創作か史実かもうわからないものをもとに…④が起きます。

④創作混じりの「甫庵信長記」や軍記物をもとに、日本陸軍が戦史編纂

時は明治20年代後半。日清戦争後、次の敵は大国ロシア。

軍は日本の戦史を研究した結果、「小国が大国を制するには奇襲が有効」と考え、急いで「桶狭間の役」という戦史を編纂、士官学校の教材にもしたんです。

権威ある軍の発行物の影響力は絶大!

ぱる

立派なところが出した書物だから「事実に違いない」ってなってったわけだ…

すーたろ

創作混じりの部分も、歴史家、小説家、文部省…みんなが「史実と信じるところ」になっちゃったんだね

そして昭和12年。

南館を古戦場と信じる豊明村(現在の豊明市)が、文部省に史跡認定申請をした、と。

すーたろ

ただ、当時の係官も…

激戦地は桶狭間だと思うんだけどな…

戦の直後は、戦場のすぐ近くに敗将の墓を作ること自体、避けられた可能性もあるし、お墓、本物かもしれないなぁ…

じゃ、

伝説史跡

ってことで。

ぱる

で、伝説??

すーたろ

伝説…

「伝説地」爆誕。

結局、「激戦地=桶狭間」までは特定されてるけど、「義元 最後の地」の結論は出てないまま、墓所も2ヶ所という、今の状態になってしまったんです。

どっちが本物なの?

2ヶ所の古戦場

あくまで、私が思う「結論」ですが。

  • 激戦地は、愛知県名古屋市桶狭間。
  • 「今川義元 最後の地」も、1.5km離れた南館とは考えにくい。たぶん激戦地のはず。
  • ただ、義元のお墓は、どっちが本物かはわからない。

「最後の地」を墓所だと考えると、答えはわからない。それが答えです。

「史跡 桶狭間古戦場伝説地」を歩いてみた

とにもかくにも。

まずは、先に、豊明市南館の「桶狭間古戦場伝説地」へ行ってみました。

手入れされた植栽が並んでいて、庭園風。

入口の石柱碑には「昭和16年10月建設」と刻まれていました。

園内奥手にある案内図。

敷地内にある石碑やお墓について解説してありました。
入口の説明書きと案内図によると…

今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があった

  • 1771年 「七石表」建立
  • 1809年 「弔古碑」建立
  • 1876年 「義元公の墓碑」建立(明治9年5月)
  • 1937年 国の史跡に指定(昭和12年12月21日)

七石表

桶狭間の戦いで今川義元の戦死した場所を示す、最も古いものである。
明和八年(1771)、尾張藩士 人見弥右衛門桼(あつし)、赤林孫七郎信之により建てられた。
北面「今川上総介義元戦死所」
東面「桶峡七石表之一」
南面「明和八年辛卯十二月十八日造」
と刻まれている。

案内看板より 豊明市教育委員会

弔古碑

文化六年五月(1809)津島の神官、氷室豊長が建てたもの、碑の表面は「桶狭間の戦い」を解雇する分と往時を偲ぶ詩、裏面には建碑の趣旨が彫られている。
文章は尾張藩の儒学者 泰鼎、碑麺の文字は尾張藩の大坂用達役 中西融の筆跡。
石工 河内屋孫右衛門の手により刻されたものである。

案内看板より 豊明市教育委員会

すーたろ

碑に書いてあるのは、桶狭間の戦いの様子なんですが、市の解釈が「こここそ、正当な桶狭間古戦場です」的に付されているのが、気になっちゃった

解釈

1.本陣の場所を「桶狭間山の北に陣」と明記してある。桶狭間山は石塚山とも云われ、現在(株)ホシザキ本社

2.戦いは「奇兵をもって」と、奇襲戦を明記してある。

3.碑文は、ただ一つ残る敗者側の文で真実に近い。

4.この碑を建立する場所・碑分については、尾張藩の許しを得て建てられた。尾張藩の正論である。

案内看板より
すーたろ

碑自体が作られたのが1809年というのが本当なら、桶狭間の戦いから249年後だからなぁ…

義元公の墓碑

今川治部大輔義元の墓(いまがわじぶだゆうよしもと)

駿河・近江・三河の国主、今川義元は西上の途次、永禄三年(1560)五月十九日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。ここには、その霊が祭られている。
以前、ここは塚であったが 有松の住人 山口正義が主唱し 明治九年五月に、この墓を建てた。

案内看板より 豊明市教育委員会

駒つなぎのねず

画面右側の、看板がかかっている曲がった木がそれです。

今川義元が このねずの木に駒をつないだという。ここに酒宴を張り、たまたま、雷雨となり信長の急襲を受け戦死した。

案内看板より 豊明市教育委員会

案内所

休日でしたが、閉まっていました。コロナ禍だからなのか…。

感想

墓碑とかかなり古いので、何も知らなければ「そうか、これが…」と思うんでしょう。

でも、ご紹介した一連の話を知っていて歩いてみると、「きっと、ここは違うんだろうな…」という気持ちに。

すーたろ

豊明市さん、なんかごめんなさい


そんなわけで、こちらを後にして、もう1ヶ所の古戦場へ行ってみることにしました。

まとめ

2ヶ所の古戦場

いかがでしたか。

桶狭間古戦場はどこにあるの?
➡愛知県。「名古屋市緑区桶狭間」「豊明市栄町南館」の2候補

「今川義元 最後の地」がなんで2ヶ所あるの?
➡ソースとなる2つの書物が存在したから

どっちが本物なの?
➡「最後の地」が戦没地という意味なら「名古屋市緑区桶狭間」
➡「墓所」という意味ならば、真相は不明。

※あくまでも私見です

また、この記事では、2ヶ所ある候補のうち、「豊明市栄町南館」にある「桶狭間古戦場伝説地」を写真入りでご紹介しました。

続けて私は、もう1つの候補地であり、激戦地と判明している「名古屋市緑区桶狭間」に足を向けてみました

そこでなんと!

すーたろ

偶然にも、月1回しか開催されていない、桶狭間古戦場保存会さん主催の無料ガイドツアーに参加できたんです

ぱる

…長くなりそうだね


序章、1章と来て、ようやく次章!激戦地・桶狭間の地へ!!(苦笑)

すーたろ

次編もお楽しみに!

最後までおつきあいくださり、ありがとうございました。

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