こんにちは!すーたろ(@sutarog)です。
戦国時代の有名な合戦があった「桶狭間(おけはざま)」を歴史散策してきました!(22年5月現在)
史跡というと、お城や神社、お寺が浮かばない?
だよね。ん?古戦場跡って何が残ってるの?
・・・ロマンかな(キリッ)
・・・
兵(つわもの)どもが夢の跡。
さて、本当のところ、かつての戦場には何が残っているんでしょうか?
- 桶狭間古戦場ってどこにあるの?
- 今どうなってるの?
- みどころは?順路とかあるの?
実は今回、自由に散歩してみるつもりで現地に向かったのですが…。
偶然にも、桶狭間古戦場保存会さんが主催する、無料ガイドツアーに参加することができたんです!
月に1回のレアツアー!!すごい偶然!
なので…こんなこともわかります。
- 桶狭間古戦場の無料ガイドツアーってどんな感じ?
興味が沸いた方は、ぜひこの記事で、参加方法などチェックしてからおでかけくださいね。
とはいえ。
遠くに住んでると参加は難しいかも~
この記事を読めば、ガイドツアーに参加した気になれちゃうはず!?
ぜひ最後まで、おつきあいくださいね。
そもそも「桶狭間の戦い」って?方は、先にこちらの記事をどうぞ。
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桶狭間古戦場ってどこにあるの?
愛知県名古屋市緑区桶狭間にあります。
交通アクセス
自治体公式URL
桶狭間古戦場公園 | 【公式】名古屋市観光情報「名古屋コンシェルジュ」 (nagoya-info.jp)
桶狭間古戦場公園 | 【公式】愛知県の観光サイトAichi Now (aichi-now.jp)
無料ガイドツアーに参加!桶狭間古戦場のみどころ一挙公開
ここからは、無料ガイドツアーの概要をお伝えしたあと、一緒に古戦場を巡ってみましょう。
無料ガイドツアーの概要
参加させて頂いたツアーはこちら。
- 主催:NPO法人 桶狭間古戦場保存会
- 日時:毎月第2日曜日・13時出発
- 時間:1時間程度
- 料金:無料
- 受付:桶狭間古戦場公園内にて
- 予約:不要
公園自体は小さいので、開催日時の5分位前までに公園へ向かえば、受付はすぐわかります。
新型コロナ感染拡大防止対策として、名簿記入と、検温、消毒を求められました。
この日の参加者は、ざっと15名ほど
2組に分かれての散策。
各々、解説してくださるガイドさんと、他に2名ずつ、同伴してくださいました。
参加してみてどうだった?
すごくよかったよ!
- みどころをまとめたマップがもらえた
- 迷わずに効率的に回ることができた
- ひとりでは見落とすような場所も教えてもらえた
- エピソードを色々聞かせてもらえた
- ガイドさん達との会話も楽しかった
みどころをまとめたマップは、観光案内所でも受け取れます。
マップで「ちょっとコース」として紹介されている約2kmのコースが、ツアーとほぼ同じ内容でした。
先にネタバレしてしまうと、桶狭間古戦場、現在は閑静な住宅街です。
そのため、見どころを地図から理解して回るのが、普通の史跡より難易度高め。
案内してもらえてすごく助かったよ
ただ、時間やルートの都合、ツアーではすべての見どころを回れるわけではありません。
私はツアー終了後、立ち寄らなかったみどころも、自分で追加して歩いてみました。
さぁ!ここからは、「行ってみたい!」という方も、「遠方で難しい」という方も。
レッツゴー散策ツアー♪
長かったね・・・序章、前編と来て、ようやくだよ・・・
注意)ツアーのゴールは公園ではありません
先にご注意を。このツアー、出発地は公園ですが、ゴールが公園ではありません。
公園に戻ってくる予定がないなら、先に園内を見てね
みどころ①公園内と首洗いの泉跡
公園自体はコンパクト。
桶狭間の戦いについては、園内看板でもおさらいできますよ。
戦後450年を記念して2010年に建てられた銅像がシンボリック。
信長の像。当時26歳、若武者ですね。
義元の像。海道一の弓取りらしい立派な姿です(よかった、お公家まろ眉じゃない!)。
園の半分は、桶狭間の戦いに関係ある砦や川を再現したジオラマになっています。
・・・ねぇ、みだしにある「首洗いの泉」って何?
討ち取った義元の首を濯いだって言われてる泉だよぉ
やっぱそういうの!?怖ぁ!
ここはかつて、足を取られるような深田のあった場所で、追い込まれた義元はここで討ち取られたとみられています。
今でも水が湧いてるんです。「義元水汲みの泉」とも呼ばれています。
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今川義元のお墓の前からツアースタート
定刻になると、今川義元のお墓の前で、戦いについて一通り解説があります。
お墓は、ふたつ並んでます
左奥が「義元公墓(よしもとこうぼ)」
1934年(昭和9年)建立。
右手前が「駿公墓碣(すんこうぼけつ)」
1953年(昭和28年)にねず塚(後述)から見つかったもので製作年は不明。かなり古い物なのは見て取れました。
駿公って何?
駿府(義元の治めていた静岡中部)のお殿様、って意味だよ
じゃ、墓碣は?
頭が丸い形をした墓石。四角いのは墓碑(ぼひ)って言うんだよ
当時の村人が、敗軍の将を弔うことをはばかり、墓石を埋めてひっそり供養したものとおもわれます
案内板 桶狭間古戦場保存会
そして、その隣には・・・今川義元公 馬つなぎのねずの古木。
写真の左端に写っている枯れ木がそれです。
ここにある枯れたねずの木は、着陣した今川義元が田楽坪の泉で水を飲むために馬をつないだ木と言い伝えられ、田の中にねず塚としてのこされてきました。この木に触れると熱病にかかるとの言い伝えもあります
案内板 桶狭間古戦場保存会
えっと・・・義元のお墓と、ねずの古木って・・・
そう!約1.5km離れた、豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」にもセットで存在してるんだよね
「どっちが本物?」論争は、前編で掘り下げています。気になる方はどうぞ。
ちなみに。この行軍に、義元は塗り輿(乗り物)を使ったと言われています。
それが史実なら、馬をつないだ、というのはしっくりきませんね。
義元用の馬を家臣が引いていて、それをつないだ、とか?
真相は誰にもわからないね
さぁ、では公園を出発しましょう!
みどころ②おけはざま山 今川本陣着陣跡
最初は、今川本陣着陣跡!
住宅街ですが、道中、親切に看板があります。
イッヌの看板が気になる(笑)
おけわんこだよ~っ♡私と同じ、史跡めぐりが趣味のわんこ!知らない!?(グイグイ)
い・・・いや、しょっぱなから脱線してごめん!散策に戻ろ?
ちなみに、「いまがわんこ」もいます。
はい!到着~
公園からは、のんびり歩いて5分ほど、少し坂を上がったところです。
合戦当時は、現在より八米(8m)程高い山であった。
おけはざま山看板 平成21年1月設置 梶野 渡
信長公記に「今川義元は、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」と記載のある、まさにその場所だと考えられてます。
草や水があるから馬を休めるのにもいいし、敵が警戒できる見晴らしのいい場所だったみたい
今川軍の前衛隊がいたとされる巻山・幕山とも連携しやすい場所でした。
みどころ③本陣から望む巻山(まきやま)
では、その前衛隊がいた場所「巻山」を臨んでみましょう。本陣跡から歩いて2~3分。
正面に見える一帯が「巻山(まきやま)」です。
今川軍の先頭 井伊 直盛が、1000人超の兵とともに陣を張った場所です。
織田軍の攻撃で総崩れして、井伊 直盛もここで戦没しています。
当時はこんな風に家もなく、田んぼがチラホラあっただけで、見晴らしも、ずっとよかったんでしょうね。
見下ろす位置にある赤い看板の建物の左が、出発地の桶狭間古戦場公園です。
みどころ④次の目的地に向かう道中
実はこのあたり、名古屋市と豊明市の境界。
豊明市のマンホールには、信長・家康・義元、3武将が描かれています。
で。わずか数メートルの場所に名古屋市のマンホールもあって、見比べるられるんですが。
ん?虫?
アメンボ♡
桶狭間は名古屋市だけど、マンホールはアメンボ。・・・あ!特に覚えなくていいですよ!
もういっちょ。こちら、旧街道。
今川軍が進軍したであろう道の名残のようです。
生活用道路という趣で、幅も狭く、大通りからは少し離れています。
住所看板の「桶狭間」の文字に「お!現地来た」って萌えますよね♡
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みどころ⑤瀬名陣跡(せなじんあと)
巻山を望んだ場所からは、歩くこと7~8分。瀬名陣跡です。
桶狭間の戦いが5月19日。
その2日前に、義元の家臣 瀬名 氏俊が、約200名の先発隊とともに着陣した場所です。
村木(現在の東浦)、追分(現在の大府)、大高、鳴海方面の監視と、大将義元が19日に昼食する時の本陣を設営しました。(中略)
看板 有松桶狭間観光振興協議会
当時は(中略)陣所の形態を留めていましたが、その後は竹林になり、里人は瀬名氏俊をしのび「セナ藪」「センノ藪」と呼んでいます。
昭和61年、池の堤防工事によりセナ藪も取り壊され、今は、竹をわずかに残しています。
看板 有松桶狭間観光振興協議会
義元の戦没地では?と見られている公園は目と鼻の先。
戦勝祈願に御酒を献上したという桶も、この近くの氏神様に残ってるそう
ちなみに瀬名さんは、陣を張った後大高城に向かっていたから、ここでは死んでません。
強運だね~
藪の向かい側には、大きな池があります。
毎年、桶狭間では、戦があった5月19日頃、戦没者を慰霊するお祭りが行われます。
その晩、この池の周りを約3,500個のペットボトルで作った灯篭が囲む「万灯会」が開催。
残念ながら、
新型コロナで2022年のお祭りは中止なんだね
お祭りや「万灯会」の様子はこちらの「おけわんこのブログ」を見てね
この池も、貯水池ではなくて泉。昔からあったと伺いました。
みどころ⑥義元の首検証が行われた長福寺(ちょうふくじ)
セナ藪と池との間の道を行くと、現れるのが「長福寺」。
石碑からお寺の門につながる道の途中にも、今川軍の行軍に使われたと思しき旧街道の名残が残っています。
完全に私道に見えるんですが、これで公道なんだそう。
ここから、わりと生々しい怖い話をするね
・・・飛ばしてもいい?
ちょいグロな話が嫌な方は・・・見どころ⑥にスキップして
今川義元の軍勢に、このお寺の僧がお酒や食事を提供したようですが、直後、戦況一変。
義元は討死してしまいます。
門をくぐってすぐの、この場所。
義元に仕えていた林阿弥(りんあみ)が、後日、義元や、今川方の武将の首検証をさせられた場所。
そう、このお寺には伝えられています。
首検証って何?(こわいよ)
斬られて塩漬けにされた首を、敵方の人間に見せて、確かに本人のものかを確認させること。首実検も同じ意味だよ
写真なんかない時代。
本人の顔を知っている人に、間違いなく本人かを確認させて、言質を取る必要があったわけです。
首は、傷まないよう、塩漬けにするのが慣例。
戦があった旧暦の5月は、今の6月、梅雨時。
ご遺体が傷むのは早いよね
ううぅ・・・グロい・・・怖い・・・
この場所のすぐ隣が本堂。
義元や今川軍の戦没者を慰霊するために、林阿弥が駿府から持参した阿弥陀如来像があります。
向かって左手には、今川家の縁者が1714年に奉納した「今川義元像」も安置されています。
最近も、改修の折に、義元の位牌が見つかったり、他にも色々出てきているみたい
上の写真は、窓付きのドア越しに撮影。
例年だと、先にご紹介した5月の慰霊祭で、像や位牌は一般公開されるんだそうです。
さらにお寺の奥に歩を進めると・・・
弁天池。別名「血刀濯ぎの池」。戦いで血のついた刀を濯いだんだって
江戸時代の史料に、そう残っているんだそうです。
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みどころ⑦戦評の松(せんぴょうのまつ)
お寺、怖かったぁ・・・
古戦場らしいエピソードの場所だったね
さぁ。ツアー最後のみどころ、戦評の松ですよ。
戦の当時、大きな松があったそうで。
その下で、さっきセナ藪の話で出てきた瀬名 氏俊が戦評をしたと言われています。
戦評って何?
勝負の経過や結果について評価することだよ
鷲津砦・丸根砦を陥落させ、織田方の遊撃隊も続々打ち破っていた今川軍。
続々届く敵将の首に、義元、とっても機嫌がよかったよう。
今川軍にとって桶狭間に来るまでの展開は、とっても順調だったわけだね
ここで首のお披露目準備もしてたんかと思うと怖ぁ!
現在の松は三代目。二代目が伊勢湾台風で倒れてしまって、植え替えられたそう。
旧暦の5月19日には、白馬に乗った義元の亡霊が出る、なんて言われてるそうですよ
ゴールは「桶狭間古戦場観光案内所」前
おつかれさまでした!
ゴールは公園ではなく、桶狭間古戦場観光案内所の前です。
散会後は、ぜひそのまま案内所も見学していきましょう!
2019年、日本戦国史ファンの熱い要望に応える形で開設された案内所なんだよ
どんな感じの施設かは、こちらの記事に詳しいです。参考になさってください。
ちょっとだけご紹介♪中に入ると、なんと!
漫画「北斗の拳」でも知られる、原哲夫・作「いくさの子」の信長のブロンズ像がお出迎えしてくれます♡
精悍な顔~♡
イベントで出張しちゃうこともあるそうなので、出会えたらラッキー!
小さな案内所ですが、桶狭間の紹介ムービー上映、古い記録写真の展示などがされています。
日本の戦国史研究の第一人者、小和田先生のサインだ!瀬名氏俊が御神酒を奉納した時の桶の写真とかもある~
また、運営している桶狭間古戦場保存会さんが、史跡ガイドツアーの取次、甲冑体験、関連書籍・グッズの販売もされています。
私は集めていませんが・・・御城印も購入できますよ!
ガイドツアーに組み込まれていない近隣のみどころ2つ
残念ながら、ツアーに組み込まれていないみどころもあります。
ツアーでもらえるパンフレットに記載があったので、ツアー後ひとりで歩いてみました。
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みどころ⑧釜ヶ谷(かまがたに)
ひとつ目は「釜ヶ谷」
信長が、義元を奇襲する機を伺っていた、と言われる場所だよ
ここに向かう前に出発した善照寺砦に、たくさんののぼり旗を立てて、本陣みたいに見せかけた信長。
自身は精鋭隊を連れて、中島砦を経由、扇川沿いを進んで、現在の名古屋鉄道「有松駅」の北側の山中を進軍。
暴風雨の中、義元本陣よりさらに少し高いこの場所に身を潜め、奇襲の機をうかがっていたってことだね
この坂は「信長坂」と呼ばれています。
現在は、私立大学の敷地内。入って歩くことはできません。
柵越しに妄想して楽しみましょう。
みどころ⑨七ツ塚(ななつづか)
ふたつ目は「七ツ塚」です。
塚っていうと?
お墓なんだけど、民家の間を入ったところに急にあるんだよね
目印はこちら。
細い路地を進んでいくと・・・
住宅街のど真ん中に唐突にお墓。
信長は、義元を討ち取った後、釜ヶ谷に全軍を集めて勝ち鬨(かちどき)を上げます。
その後、村人に戦死者を埋葬するように命じて、本拠地である清州に切り上げた、と言われています。
これは、そのうちの塚のひとつ
よそから来て勝手に戦っといて、埋葬しとけって、なかなかひどくない!?
現在でも周辺住民によって供養が続けられているそうです。
名古屋市緑区の桶狭間古戦場はガイドツアーがおすすめ
いかがでしたか?この記事では、次のようなことをご紹介してきました。
- 桶狭間古戦場がどこにあるのか
- 今どうなってるのか
- どんな順路で歩けばいいのか
- 無料ガイドツアーはどんな感じか
同史跡を歩いてみたい方に、記事の内容が参考になれば幸いです
また、遠方で足を運べない方に、現在の古戦場跡がどんな様子なのか、お伝えできたなら嬉しいです!
次回、後編では、ゴールにあった「桶狭間古戦場観光案内所」の様子をご紹介しますね。
ぜひ、次回もおつきあいください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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