こんにちは!すーたろ(@sutarog)です。
先日、戦国時代の有名な合戦があった「桶狭間(おけはざま)」を歴史散策してきました!
桶狭間は、愛知県にあります。
愛知県は、戦国史跡の宝庫!
この記事では、その散策のことを…と思ったのですが。
その前に、そもそも!!
桶狭間の戦いって、いつのどんな戦いかご存知?
学校で絶対に習うよね。でも…名前しか知らない
そんなあなたに!
この記事では、「桶狭間の戦い」をやさし~く解説します!
- この戦い、なんで有名なの?
- 登場人物は?
- どういう戦い?
歴史散策で愛知県を訪れる方に、より楽しんで頂ける一助となれば幸いです。
ぜひ!最後までおつきあいくださいね。
ちなみにこの記事は連載です。
あわせてお楽しみください♡
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桶狭間の戦い なぜ有名?歴史的な意味って?
桶狭間の戦いは、1560年にあった、戦国時代の戦です。
なぜ「誰でもその名を聞いたことある」位に有名なんでしょうか。
小中学校の日本史の授業で絶対に習うからです。
戦国時代、戦はゴマンとありますが、絶対に習う戦は次の3つ。
- 桶狭間の戦い
- 長篠の戦い
- 関ケ原の戦い
なぜか。いずれも、後世に大きな影響を与えた戦だからです。
- その後の歴史を動かす2人の大きな分岐
- 戦略的な鉄砲戦の始まり
- 戦国時代の終焉
桶狭間の「その後の歴史を動かす2人」って誰?
織田信長と、徳川家康だよ
信長の天下統一は、間違いなくこの戦を契機に始まっていますし、その後の徳川天下も、この戦がなければ存在しえない。
日本史に与えるインパクトがめちゃめちゃ大きい戦なんです。
しかも!当時ルーキーだった信長の勝ちは、超・番狂わせでした。
戦自体は、織田信長と、今川義元という武将との闘いだよ
桶狭間にあるマンホールにも、3人の姿が描かれています。
どんな戦かをご説明する前に、まずは3人のことをご紹介しましょう♪
桶狭間の戦い 登場人物は?(激ゆる紹介)
信長、家康、そして義元。
桶狭間の戦いまでの生い立ちや、当時の立場は、どうだったんでしょうか。
難しいのはやだよ~?
武将だって人の子。親近感持てるよう、ゆる~く紹介するね
専門家に怒られそうな位、ゆるくしてます(苦笑)
しっかりした解説は他のサイトにお任せして!
歴史は人が紡いだもの。そこ知ってると、楽しく理解できますから♪
※以下、誕生日・年齢は、現在の暦や年齢の数え方に合わせています。
織田信長のプロフィール
圧倒的なカリスマと先見性、古い慣習に囚われない革新性で、戦国武将ランキングの類でぶっちぎり1位!!
室町幕府を終わらせた、日本人なら誰でも知ってる戦国武将ですよね。
170㎝弱の細身。ひげ少な目。
当時の成人男性の平均身長が157㎝。この頃の人としてはかなり長身ですね。
1534年6月23日(かに座)
さそり座、うお座と好相性です♡
尾張国・清須城
今の愛知県西部が所領でした。
- 12歳 元服
- 13歳 初陣
- 15歳 政略結婚
- 18歳 パパ病死・家を継ぐ
…も認めてもらえず、家中もめまくり - 24歳 弟を暗殺・織田家制圧
- 25歳 尾張国をほぼ統一
- 26歳 桶狭間の戦い
その後、37歳で比叡山焼き打ち、39歳で室町幕府を滅亡に追いやり、42歳で安土城築城。
天下統一目前の48歳、本能寺の変で非業の死を遂げます。
- 尾張国の南側1/3を治めていた領主…の家臣の子
- じいちゃんもパパもやり手で、領主食い気味だった
- 領民との身分差を気にせず付き合うフラットな感覚
- 経済に明るい
- 若い頃から奇行多めで周囲からはアタオカ扱い
奇行って例えば?
パパのお葬式に超~ラフな格好で表れて、居る人に目もくれず、位牌に向かって抹香掴んで投げつけて立ち去った、とか(苦笑)
そりゃ跡継ぎに認めたくないよね
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今川義元のプロフィール
今川義元は、いわゆる「サラブレッド」。
足利一門の流れを組む、格式高い家柄の守護大名。
政治・外交・軍略の才覚で、一代にして今川家を「戦国大名」へと導いた人です。
一方で、僧侶として京都で育ったこともあり、公家文化にも精通していました。
「海道一の弓取り」って呼ばれてたみたいだけど、どういう意味?
東海道で一番の大名って意味だよ
お歯黒に薄化粧
戦国時代にしてビジュアル系!?
ママも公家出身。本人も小さい頃から京都育ち。京都の流行にも敏感だったようですね。
好きで化粧してたのかな?周りとの格の違いを見せつける戦略だったのかも
化粧自体、後世の作り話、と見る向きもあるようです。
お羽黒も化粧も、超・高貴な家の人間にしか許されないこと。
家柄が良かった、を示すエピソードと思っておけば。
ゲームとかで、ヘンテコなマロ眉お公家ちゃんに描かれてるのが残念すぎ!!
1519年生まれ
信長より15歳、家康より24歳年上です。
駿河国・駿府城
今の静岡県中部が所領でした。
- 4歳 出家
- 18歳 兄逝去
還俗して家督相続
異母兄を倒して当主の座へ - 19歳 政略結婚・武田と同盟
- 27歳 北条家と和睦
- 34歳 今川仮名目録追加
(幕府からの独立宣言) - 36歳 甲相駿三国同盟
- 41歳 桶狭間の戦い
18歳で家督を継ぐきっかけになった「兄逝去」は、2人のお兄ちゃんが同じ日に亡くなって、死因は不明…。
…まさか!?
- 領主(守護大名)家の5男。正室の3男。
- 足利一門の武家
- 教育係の太原 雪斎(たいげん せっさい)は有能な軍師
- 上洛に最も近い大名
隣国の北条・武田と姻戚関係による同盟で、国の東側はバッチリ!
合理的な領国経営も展開。
今川という中小企業を一代で、一気に大企業へと押し上げたんですね。
ただ、桶狭間の戦いの5年前、義元36歳の時に「黒衣の宰相」こと軍師にして師匠でもある雪斎が他界。
雪斎が生きていたら、桶狭間の敗戦はなかったのでは?とまで言われてるよ
今の日本の姿もまるで違ってたかもってことだね
徳川家康のプロフィール
言わずと知れた天下人。徳川幕府初代将軍。
その後260余年続く徳川治世・江戸時代を起こした人ですね。
159㎝ 当時の男性平均くらい
晩年これで70㎏だったとか!メタボ!!
玄米主食にしてた健康オタクだって逸話が残ってるんだけどね…
晩年、天ぷらが大好物だったみたい。バランス大事!
1543年1月31日(みずがめ座)
ふたご座、てんびん座と好相性ダヨ♡
駿河国・駿府城(ただし人質)
所領は、今の愛知県東部、三河地方ですが、今川の支配下でした。
- 4歳 織田で人質生活スタート
- 6歳 今川で人質生活スタート
パパ死去で家督相続 - 14歳 今川家のもとで元服
- 15歳 政略結婚
- 18歳 桶狭間の戦い
なお桶狭間の戦い当時は、徳川家康ではなく、「松平元康(まつだいら もとやす)」って名前でした。
桶狭間の戦いの後は、19歳で信長と和睦。43歳で秀吉に臣従。57歳で関ケ原の戦い。60歳で江戸幕府を開き、73歳で亡くなります。
- 岡崎城主・安祥松平家(あんじょうまつだいら)の嫡男
- 10年以上も人質生活
- 若い頃はド短気!
- 戦況不利になると馬の鞍を拳で殴りつけて血だらけになるクセが!のちに、指の曲げ伸ばしがしにくくなるほど。
領主として、多くの味方を死なせる戦を経験するなどして、辛抱を学び変わっていくんですね。
義元が家臣に指示した、人質・家康への「むごい教育」って知ってる?
え?むごい!?…粗末なごはんに、重労働とか?
好きなだけごちそうを与えよ
寝たいと言ったら、いくらでも寝かせよ
夏は涼しく、冬は暖かくしてやれ
学問が嫌なら一切させなくて構わない
え!?手厚いじゃん!どこがむごいの?
こうすれば、大抵の人間はダメになるから、って
怖ぁ!!!
この逸話。本当のところは、どうだったんでしょうね。
少なくとも、こどもを育てる時のひとつのヒントにはなるのかもしれません。
桶狭間の戦い 当時の3人のレベル感・戦の目的
3人の生い立ちや置かれた立場を踏まえて。
「バトルオブ桶狭間」直前のレベル感はこう。
26歳。尾張国を完全掌握できてたとはギリギリ言えない位。
41歳。トップオブ大名。キングオブメジャー!
18歳。今川家の人質。所領の三河国は今川支配下
今川義元は、当時、今の静岡を中心に広く東海道を治めていて、国の北・東(神奈川・山梨あたり)も同盟でガッチリ。
三河(愛知県東部)も手中に収めて、京都に向け次は尾張(愛知県西部)へ…という流れです。
今川家による尾張制圧!織田家は防衛。これが戦の目的だね
それが、予想を裏切る織田の勝利で決着。
晴れて家康も自領に戻ることができ、信長と同盟を結んでともに歩み始めることになります。
さあ、そんな桶狭間の戦い、どんな戦いだったんでしょう
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桶狭間の戦い 具体的にはどんな戦い?
戦の目的は、今川による尾張侵攻(織田にとっては所領の防衛)でしたね。
ここからは、桶狭間の戦いとは、どんな戦いだったのかを、またまたゆる~く解説します。
桶狭間の戦い 織田と今川の勢力差は?
攻める今川と、守る織田。軍備にも経験にも大きな差がありました。
今川軍 | 織田軍 | |
軍備 | 25,000 | 3,000 |
家柄 | 大・大名 | 尾張も掌握未完のイチ武将 |
トップの経験 | 軍略に優れ外交も上手 | 家中騒動を制した程度 |
すごい差!メジャーがぽっと出のルーキーにやられたんだね
信長の勝ち目は限りなくゼロに見えるよね
過去、小豆坂(三河・現在の愛知県岡崎市)でも2度、織田パパ時代から衝突していますが、どちらも今川優勢でした。
家康も、最初は織田の人質だったのに、この敗戦で、今川の人質として奪われちゃいます。
どうやって勝ったの?
奇襲攻撃だよ
今川本軍が進軍の休憩中、突然の激しい雷雨。
その中を信長軍が切り込み義元を討ち取る。
ここからは戦自体の展開を、時系列で具体的に見ていきましょう。
桶狭間の戦い 具体的にはどんな展開?
1560年。旧暦の5月18日から19日にかけて起きた戦だよ
今でいうと6月だよね
以下、旧暦の日付ですが、6月だと思って読んでみてくださいね。
5月12日
今川軍、25,000人の大軍を率いて駿府城を出発!
5月18日(決着の前日)
今川軍、沓掛城に到着。
さらに尾張攻めの拠点、大高城を目指します。
大高城に食料を運んでおけ!
夜間に、ですね。お任せを
義元の入城準備ですね。
道中を織田方に攻められる恐れもある、危険で重大な任務。
無事やり遂げ、ほっとしたのも束の間。
明朝、丸根砦を落とせ!
(…めっちゃ人遣い荒い~)
今川方の2城の間にある、2つの織田方の砦を落とすよう指示が出ます。
簡単に言ってくれちゃってますが、生きるか死ぬかですからね?
そこらへんに出張しろっていうのとは、わけが違います(苦笑)
一方、その頃の信長は。
(明朝、2砦が攻撃される…か)
情報を掴みますが、大半の家臣には攻撃準備ではなく帰宅指示。
信頼のおける限られた家臣にのみ
明朝9時、善照寺砦に集合しろ
今川軍への内通者を警戒していたと言われています。
5月19日(運命の日)
早朝
家康が丸根砦、朝比奈泰朝が鷲津砦を攻撃
信長@清須城 2砦攻撃の報告に
善照寺砦に向かうぞ
なんと、自身を入れてたった6騎で出立します
出立前に「人間五十年、下天のうちを比ぶれば…」っていう、幸若舞「敦盛(あつもり)」を舞ったっていうのが有名ですね
8時
家康たちが2砦を陥落
義元 今川軍本体と沓掛城を出発
信長@熱田
丸根・鷲津が落ちたか…
砦の陥落をのろしで知り、1000人余りを引き連れて善照寺砦へ急ぎます
10時
義元@大高城への道中
砦、陥落♪よきよき♪
信長@善照寺砦に到着 兵3,000名が待機
この砦は死守しろ!
家臣にそう命じて、自身は兵2,000を引き連れ、中島砦救出に向かいます
11時
信長@中島砦への道中
今川軍本体がおけはざま山で休憩するだと
部下を鼓舞し急遽おけはざま山へ
義元@おけはざま山
私の旗の向かうところは、天魔鬼神も避けて通るな♪
敵将の首を確認しながら、続く戦勝報告にゴキゲン♪
午後
突然の激しい雷雨!!!
義元・今川軍@おけはざま山
落雷を恐れて槍や弓など長めの武器を手放し木陰に避難
激しい雷と雨風の音で織田軍2,000の進撃に気がつかない
信長@おけはざま山
山影で突撃の間合いを図る
塗り輿(こし)が義元の目印だ
え?輿に乗って進軍してたの?馬じゃなくて?
輿自体が、超・高貴な人だけのもの。自分の権威を見せつける目的だったんだろうね
そして、雷が少し遠のく頃…
@おけはざま山
右翼攻撃!かかれ!!
急な奇襲攻撃に、武器を取ることもできない今川軍は逃走!
内輪もめか?やめよ!
悪天候もあり、この攻撃を内輪もめと勘違いした義元。
…敵襲か!?逃げるぞ
300騎ほど連れて南麓の草原に退避するも…
ぐはぁっ!!!
義元、信長の配下に首を斬られて絶命。
16時
信長@おけはざま山
勝ち鬨をあげよ
エイ・エイ・オー!!
日のあるうちに清須城に帰還したといいます。
桶狭間の戦い 織田の勝利が後に与えた影響は?
バトルオブ桶狭間、織田の勝利が後に与えた影響をおさらいすると、こうなります。
信長:メジャーを倒し、天下統一に踏み出す
義元:没後、今川家も衰退へ
家康:13年の人質生活から解放、領主に返り咲き
信長と家康が表舞台に出る契機という意味で、戦国時代の本当のスタートは、この戦からと言えるのかも
この記事の話を、漫画でわかりやすく&カッコよく描いてるのがこちら!
この記事の解説の100万倍の臨場感をもって、アツくこの戦のことがわかって超オススメ!
戦そのもののことはもとより、時代考証や、戦に至るまでの2人の男(信長と義元)のことが独自視点で描かれているのも魅力。
全5巻で、戦の描写は5巻に描かれています
ちなみに「外伝」とありますが。
本編は、史上最も失敗し挽回した武将・仙谷秀久の一代記を描いた、宮下英樹氏の書く「センゴク」シリーズ。
信長が桶狭間の戦いの後、岐阜城を攻略するところから本編が始まるため、外伝はその前日譚という位置づけ。
こちらもめちゃめちゃオススメです!
ぜひ、ご一読ください♪
あとね、大河ドラマで見る桶狭間の戦いも一興だよ!
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桶狭間の戦いカンタン解説まとめ!こりゃ足を運ぶしかない
この記事では、「桶狭間の戦い」の史跡をめぐる前に、誰による、どんな戦いだったのかをおさらいしてきました。
日本史を動かす、信長と家康の戦国人生の起点となる戦
- 織田 信長
- 今川 義元
- 徳川 家康
- ローカルルーキー信長が、トップオブ大名義元を、奇襲で討ち取った一発逆転バトル
- 信長は天下統一への一歩を踏み出す
- 家康は人質から解放され領主に返り咲く
今川という大きな脅威から解放された2人の、戦国快進撃がここから始まる、という起点となった戦でした。
さて、次のお話は?
ん?2ヶ所ある?ドユコト?
義元の戦没地が公園になってる場所が、名古屋市緑区と豊明市、2ヶ所存在してるんだよ
古戦場が2つ、義元の戦没地も2つ。
果たしてどちらが本物なのか。
なんでそんなことになってるのか?
すーたろは、もちろん、どっちも散策してきました!
次編、散策記(前編)に続きますよ♪
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