こんにちは!すーたろ(@sutarog)です。
先日、戦国時代の有名な合戦があった「桶狭間(おけはざま)」を歴史散策してきました!
古戦場の現地散策の様子は、こちらの記事にてご紹介しています。
桶狭間古戦場散策記(中編)戦場の現在の姿は?観光のみどころは?無料ガイドツアーとは?
その足で、ちょっと離れた、この戦ゆかりの地にも足を運んだんだ~
この記事では、桶狭間古戦場散策記の締めとして、古戦場から少し離れた「桶狭間の戦いにゆかりの地」を2つ、ご紹介しますね。
- 善照寺砦の現在の様子
- 東海市にある今川塚の現在の様子
- 義元のお墓は他にもある
ぜひ、最後までおつきあいくださいね。
そもそも「桶狭間の戦い」って方は、こちらの記事をどうぞ。
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善照寺砦(名古屋市)の現在の様子
善照寺砦って何だっけ?
今川義元との戦いで、織田信長が鳴海城を囲むように築いた砦のひとつだよ
善照寺砦は、桶狭間の戦いで信長が兵を集めた砦です。
丸根・鷲津の2砦が攻撃されるという情報を得て、信長が駆けつけたのがこの砦でした。
その砦があった場所は、現在「砦公園」という名前の公園になっています。
滑り台やブランコがあって、近所のこどもたちが楽しそうに遊んでいました。
ここ、地名自体も「名古屋市緑区 鳴海町 砦(とりで)」っていうんだよ
園内にこんな小さな碑がありました。
このあたり、尾張国砦村(おわりのくに・とりでむら)だったんですね。
公園の名前と住所、案内看板だけが、かつてこの場所が砦だったことを教えてくれています。
善照寺砦跡
案内看板 名古屋市教育委員会
永禄二年(1559)、今川方の猛将 岡部 元信が守る鳴海城に備えて、織田信長が築いた三砦(※)の一つである。永禄三年 桶狭間の戦いのころには、佐久間右衛門と舎弟同左京亮が守っていたが、五月十九日、桶狭間に今川義元を奇襲する直前、信長はこの砦の下に兵を集結したといわれる。
信長は、家臣に、この砦の死守を命じます。
そして、ここを信長のいる本拠地と見せかけながら、中島砦の救出に向かったのでした。
その道中、義元のいる場所の情報を得て、急遽、おけはざま山へ進路を取ったんだったね
この場所が、他より高い場所にあること、伝わりますか?
桶狭間の方角を臨むとこんな景色。
ここは名古屋市内。今では、見渡すかぎりに家が建っていますね。
桶狭間の戦いに縁のある城や砦の跡は、他にもこんなところがあります。
- 大高城跡
- 鳴海城跡
- 沓掛城跡
- 中島砦跡
- 丹下砦跡
- 丸根砦跡
- 鷲津砦跡
実は・・・丸根・鷲津の両砦跡も行ってみたんだけど、高台の上の雑木林だったよ
今は、見晴らしいい感じではありませんでした。
住宅街のど真ん中で、車を止める場所もちょっと見当たらず、撮影のために踏み込むのを断念。
訪れる機会があったら、またこの記事に情報を追加したいな
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今川塚(愛知県東海市)の現在の様子
もう一ヶ所。少し離れた場所になるのですが・・・。
東海市高横須賀にある「今川塚」です。
塚っていうことは・・・?
そう、お墓だよ
ん?またお墓?しかもなんでこんな離れたところに?
この塚、桶狭間古戦場公園からは南西に11kmほど。徒歩2時間かかる距離です。
義元の家来が、桶狭間で敗れた後、遺体の一部を持ってここまで逃げてきて、永昌院(塚の南方にあったお寺・現存していません)へ葬ったそうです。
この塚、江戸時代の地図にも書き記されているんだそうですよ。
供養塔の向かって右手の碑には、「今川義基墳」と書かれています。
ん?「もと」の字が違うよね?
敵に見つかるのを防ぐためだとみられているよ
敗軍の将の墓。作ることがはばかられたんでしょうね。
花が手向けられていました。地元の方でしょうね。
この供養塔、地域の方には「今川さん」と呼ばれています。
供養塔に隣接する地域の集会所も「今川集会所」。
また、この場所の住所は今川町ではないのですが、掲示板には「今川町」と記載されていました。
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他にもある義元のお墓・・・どこに?いくつある?なぜ?
ねぇ・・・どんだけあるのよ義元のお墓?桶狭間に2ヶ所だけじゃなかったの?
実は義元のお墓は、桶狭間以外にも、複数存在してるんだよ
桶狭間古戦場を除いて、愛知県内に4ヶ所、静岡県に2ヶ所あります。
ざっと紹介してみましょう。
①愛知県西尾市 東向寺(首塚)
義元の首(首級・くびじるし)は、戦後、信長の居城がある清州で晒されました。
で。鳴海城を守っていた今川方の武将・岡部元信が、城と引き換えに義元の首を返してもらうんですが。
・・・旧暦の5月、梅雨時だったよね?
そう・・・首の傷みが激しく、今川の本拠地、駿河(静岡県)まで持ち帰ることを断念!
今川家ゆかりの三河の地・東光寺に、義元の首と戦死者を埋葬したそうです。
ちなみに、信長は岡部の心意気に感心して、めちゃめちゃ丁寧に首、返したらしいですよ。
②愛知県豊川市 大聖寺(胴塚)
こっちは逆に、首のない胴体を持ち帰ろうとして、やっぱり断念!
当時まだ今川領だったこちらに埋葬することにしたようです。
一色城という城の敷地内にあって、一色 時家の墓の隣に埋葬されています。
③愛知県東海市 今川塚
この記事でご紹介してきたとおり。ここも胴塚ですね。
④静岡県静岡市 臨済寺(今川家菩提寺)
今川家の菩提寺です。家康が人質時代を過ごしたお寺としても知られています。
ご遺体は埋葬できなかったようなので、あるとすれば、ご遺髪が埋葬されているのかもしれませんね。
ここからは、お墓というより慰霊のための塔です。
⑤愛知県清須市 正覚寺(慰霊塔)
信長が、義元を供養するために建てさせたものだよ
当初は別の場所にあったものが移築されたようです。
織田信長の研究の一次資料とされている、太田牛一・著「信長公記」にも、はっきりと記載されています。
清洲より廿町南、須賀口、熱田へ参り候海道に、「義元塚」とて築かせられ、弔の為めにとて、千部経をよませ、大卒都婆を立て置き候らひし。
太田牛一「信長公記」
【現代語訳】
信長は、清洲から約2.2km南の須賀口の熱田参りの街道に「義元塚」を築かせて、供養のためにお経を読ませて、大きな卒都婆を立てた。
⑥静岡県静岡市 富春院(ふしゅんいん・慰霊塔)
鳴海城と引き換えに首を返してもらった家臣・岡部元信が、駿府に持ち帰ってこちらに埋葬した説があるようですが・・・。
おそらく①②の、三河にある首塚・胴塚が本当に埋葬された場所じゃないかって思います
義元の菩提を弔うために建てられた天澤寺に築かれた慰霊塔。
後に天澤寺は廃寺、慰霊塔も富春院に移されたそうです。
今川義元のお墓があちこちにある理由とは?
今川義元のお墓があちこちにある理由は、要するに!
- 首と胴がバラバラに埋葬されたから
- 慰霊塔が複数建てられたから
「信長攻路」をもとに、桶狭間の戦い ゆかりの地をめぐってみよう
見てきたとおり、桶狭間の戦いにゆかりのある地は、なにも桶狭間現地だけではないんですね。
愛知県三河地方にも、遠く義元の故郷、静岡県にもまたがっていました。
さて。バトルオブ桶狭間をきっかけに、史跡巡りをしてみようかなと思ったあなたに朗報です!
桶狭間古戦場や善照寺砦にあった、コレ。
信長攻路??
名古屋市が観光を盛り上げようとして仕掛けてる散策ルートだよ
信長の人生を変えたこの戦で、信長が走ったルートを「人生大逆転街道」としたもの。
桶狭間の戦いに関連する歴史散策を楽しみつつ、運気もあげよう!といった楽しいしかけです。
3つのルートが提案されています。
- 揚羽道:出世勝運ルート
清州城~熱田神宮 16.8km - 木瓜道:大願豪運ルート
清州城~熱田神宮 31.5km - 永楽道:恋愛昇運ルート
清州城~熱田神宮 17.9km
あなたなら、どのルートを楽しみながら運気あげる?
名古屋で歴史散策するなら、ぜひ!
詳しくはこちらをご覧ください。
桶狭間古戦場散策は広域に楽しめる!
いかがでしたか。
歴史は人間の生業の積み重ねが紡いでいるもの。
今につながっている背景や理由に目を向けてみると、今見えている身近な景色もまた、趣が変わってきますね。
桶狭間散策記はこれにて完結!
なんだけどぉ~・・・
・・・なんだけど?
桶狭間から近い洋菓子屋さんに、桶狭間ゆかりの武将をイメージしたドーナツが売ってて!
ん??史跡散策がスイーツ食べ歩きに!?
次回。本当に最後にして、おまけ記事。
「桶狭間の戦いにゆかりの戦国武将ドーナツ食べ比べ(仮)」
甘党の歴史好きにとってはたまらない娯楽♡
どうぞお楽しみに!
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